「――有美香、さん?」
「ケン、さんですよね?」
郊外の小京都、名刹の階段下で、わたしはケンと待ち合わせた。
「有美香」とデートをした思い出の場所だと言って、
ケンは真っ先にここを指定してきた。
木々の春色が眩しい、とある昼下がり。

「――はい。有美香、さん。逢いたかった」
あんなメールを交わしてきたから、さすがに最初は気まずい。
「――ありがとう。わたしもよ、ケン」
真面目そうで、優しそうな男。
ルックスだって悪くないし、普通にモテそうなのに、
なんでこんな男があんなメッセージにひっかかってきたのか。
なんかおかしい。
でも、狂っている男なら誰でもいい。
「有美香、さん、あまりお互いのことは聞かない方がいいかな?
楽しいことだけ話しましょうか?」
「そうしましょう、ケン」
足並みを合わせて階段を上がってゆく。
桜も紫陽花も季節外れの寺に、人影はそれほど多くない。
わたしはお化粧も濃い目に、割合地味な黒のワンピ。
可愛さは残すけど、これなら自分を消してどんな女でも演じられると思って。
「ケン、わたし嬉しい。また一緒に歩けるなんて」
試してみる。そう言ったら、どんな反応をするのか覗いてみる。
「僕もだよ、有美香。こんな幸せ、また来るとは思わなかった――」
しみじみと、噛み締めるようにしゃべる男。
静かなのに、物言わせなくさせるその空気。
ピンクや黄色の花道が、なだらかなカーブを描いて二人を導く。
風が揺らす大木の緑。まるで歪みのない庭園の絵。
こんなに奇妙な二人なのに、こんなに美しい景色。
「有美香」と呼ぶ時の、真に迫った声色。
決してわたしと目を合わせないまま会話を続けようとする。
そのくせ、声が異様に優しい。
こんなおかしな状況でも、理性で自分をコントロールしている。
歪んだ感情、この男は狂っている。

どちらからともなく、指が合わさる。
言葉もないまま、まだ遠慮がちに弱く絡ませて、
途中の竹林に外れるとベンチに腰掛ける。
竹と竹の隙間から流れてくる冷たい空気が、
水中の気泡の中に入ったかのような錯覚を生み、
だから口が進むのか、ケンはわたしの手の平をそっと撫でながら語る。
「ずっと後悔してきた。有美香と別れてから、僕は考え事ばかりしていた」
「そうなの?」
「うん。本当に考え事だけの毎日。
有美香がいなくなったら、途端に生活が崩れて僕は駄目になった」
温かい手。嘘のない言葉だって、その温もりで分かるよ。
「どうして別れちゃったの?彼女から?」
「そう。もっと好きな人ができたって言われた。
だったら、しばらく距離を取って友達に戻るのでも構わないのに、
彼女は彼女らしい潔癖さで僕とはもう一切連絡を取らないって撥ねつけてきた」
「厳しい人。それから彼女とは一度も?」
「そう。一度も連絡を取っていない。こんな馬鹿なことってあるのかな。
あれだけ愛し合った二人なのに――」
「それじゃやり切れないでしょう」
「――やり切れない。ずっと後悔してる。
彼女のその真っ直ぐなところ、厳し過ぎるとも思うけど、
そこが僕の愛した彼女でもあったから。
あの時、僕が形振り構わず何とかしようとしていたら、
きっと今頃、別の二人でいられたはずなのにな」
吐き出すようなケンのセリフ。
目を閉じて、噛み締めるように言葉を発している。
「彼女は今?」
「分からない。そのもっと好きだっていう男とも別れた、
というところまでは周りから聞いたけど、それ以上は聞かないようにしている」
なんだか厳しい話。それじゃ、お互い厳し過ぎるよ、もっと楽に生きてもいいのに。
「なんかまた二人は付き合えそうに聞こえるけど?」
「それはないよ。今更どうにもならない。
縁が二人から離れていったんだよ。それも必然だったのかな」
諦めが良過ぎること。それでこんなに後悔しているって、どうなのかな。
「今でも愛しているのね」
「……愛してる。とても愛してるよ」
ケンの指先に感情が宿るのを感じた。
わたしの手がケンの両手に強く挟まれる。
ざわざわと竹林を鳴らす、通りすがりの風。
仮初の愛情が色を帯びてくるのが、わたしには聴こえた。

「――いいのよ、ケン」
もう一方の手でケンの頭を引き寄せ、肩の上で優しく包んであげる。
「ケン、全て受け止めてあげる。みんな許してあげる。
ずっと側にいるから。もうわたし、どこにも行かないよ、ケン」
そのまま両手でそっと頭を抱くと、ケンは黙ってされるがままにしていた。
さぁ、ケン、帰ってきて。わたしの元に戻ってきて。
「――いいのよ、ケン。もういいんだよ――」
ケンの耳元でささやく。優しく訴えてみる。
「ごめん!ごめんよ、有美香!ずっと悔やんでいた。
なんであの時、もっと有美香に執着しなかったのかって。
僕と付き合ったことで、君の人生を台無しにしちゃったんじゃないかな!
ずっと付き合えないなら、君と愛し合うんじゃなかった!
君は僕とのことを後悔しているんだろうな。
悪かった、有美香、許して欲しい。どうか許してください」
精一杯の声。わたしの腕の中で、ケンがつまらない独り言を繰り返している。
――馬鹿な男、馬鹿な懺悔。みっともないし、ホント下らない。
でもそんな正直なケンが愛しいから、わたしは優しく受け入れてあげる。
「いいのよ、ケン。もういいから――。もういいんだから。
愛してね。これからまた、たくさん愛してね――」
急にケンが激しく抱き締めてきた。
男の強い力に抱かれ、わたしは瞳を閉じる。
――あぁ、この感じが欲しかったの。
わたしも抱かれている、きっとあの愛しい人に。
「――有美香。有美香。有美香!」
痛いぐらいに激しい抱擁。額に感じるキス。
たまらずわたしの唇は「ケン」の唇を求めた。
冷たい空気の中の、熱いキス。
遠く瞳を閉じて、「ケン」の想いを全身で感じ取る。
殻を破って溢れ始めた情熱に、わたしの身体も震えてくる。
「有美香」と別れたことを大後悔しているこの男。
「有美香」への真っ直ぐな愛情と、自らへの後悔の深さが同居していて、
その二つが醜く血を流し合いながら葛藤を続ける様が、とてもキレイ。
この男となら、きっとこの男となら、
互いに違う人の名前を呼びながら激しい愛を重ねられる。
――わたしは遂にわたしのケンを見つけた。 |